「何年後かにこういった生活をしていたい」。
そういったものを具体的に思い描くのは、
頭を使うものでもあるが、面白くもあり、
現在の行動に良い影響を与えてくれるものでもある。
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ボロネーゼ製法で作られた銘靴。
結局これを履いて外に出ることは無かった。
何故ならその洋酒のような色味に合わせる器量が無かったからである。
その昔この靴を買った当初は、
「いつかはこれを履けるような大人になりたい」と思っていた。
しかし、今は齢も重ね考えが変わってきた。
「いつかはこれを履けるような大人になりたい」というのは、自分にとって
「今は履けないけれど、どうにか何かがあって変わる時がくる」という人頼みなのだと気付いた。
今着ている服が、今後の自分が着るべき服を定義する。
だから、今履けないこの靴は自分が履くべきものではない。
よって、さっと手放してしまった。
ヨウジヤマモトに対して常日頃、
「ヨウジヤマモトを着るには経験が足りない」と思っていた自分も、もう居なくなった。
これが「スタイルを持った」ことなのか、「服に疲れた諦念」なのかはわからない。
ヨウジヤマモトの服を着るとすれば、一体自分はどういう理由で着ることになるのだろう。
自分の思い描く「具体的な生活」が続く限り、ヨウジヤマモトのシャツを着ることはない。
着るとしたら、何があったのだろう。
それはそれで面白い、と思うのが現在である。
おい、ヨウジヤマモトのシャツを着た未来の私、元気か。