地下鉄で、メトロポイントの広告を見た。
それは東京メトロの施策で、休日や定期券外の区域の利用でポイントがつく、というものだった。寄り道をすると3ポイント。額にして3円。快活そうな女学生の満面の笑みが大きく写されたポスターだった。
3ポイント付いたことを喜ぶ生活は見たことがないな、と思った。
 
 
先日、雲丹を食べた。
 
美味しくなかった。
それ以来不安であった。
不安であったため、さらに良いとされるウニを食べた。
 
美味しくなかった。
やはり不安であった。
して、最高級のレベルとされるエゾバフンウニを食べた。
 
不安が深まった。
ウニの独特な芳香と味。それは甲殻類全般の、エビやカニに類するものであるが、それを今まで私は真面目にとらえてこなかった。
ここで、真面目にとらえることになってしまった。
 
すると突然である。ちらりと沼が見えた。
ある毒を食らって病床にあった時、私はうなされながら当たり前の考えにとらわれた。今自分がどこから湧いてきたのかについて、何も証拠も根拠もなく、保証も何もなく、全人類それは共通で、したがって何が良くて何が悪いのかはそれぞれ個人が判断し発言していることはすべて根拠がない。と思い至った。
 
その時、自由と不安の中で”地に足がつかない感覚”を覚えた。一般に言う”自我崩壊”だろうか。すべての尺度が崩れ去った時の不安な感覚、というとしっくりくる。この時以降、その感覚を思い出そうとしてもうまく想起できない。
 
しかし、ウニを食べ味覚と嗅覚と舌先の触覚に集中し、何も考えることのなくなったただの感覚器にのようになった時にふと、その感覚が一瞬よぎる。
ウニの味は確かにある。これは確かなものとしてあるが、これを良いと、好きだと、なぜ私は判断できるのか。その主体の判断は経験によって作られただけであって根拠はあやふやである。一般的にウニは高級で美味しいという人も多い。プルーストはマドレーヌを紅茶に浸して食べる。
 
これは悪い事ではないはずだ。一流のフレンチでサイゼリアの料理が出てきても、誰もわからず美味しい美味しいと舌鼓を打つ。ガストでピエールガニエールの料理が出てきても、中々美味しいじゃん、という位で終わる。多少まずい料理であっても気の置けない友人と食べれば美味しいと感じるし、プーリアのグロッタ・パラッツェーゼで出てきた一連の料理はどんな料理よりも美味しいと感じるだろう。
 
そこで峻別しようと、要素を分解しようとする姿勢は必ずしも幸せに導くわけではない。本来「自分にとって今の良い経験は何の要素によったものか」を考える時、それは良い要素だけを選択的に今後の人生で得ようとする行為につなげるためにあるのであって、それそのものに好奇心を抱くのは趣味だ。
 
幻想が多いと思って分解すればするほど、そこには荒野しかない。
 
James BlakeはDon’t miss itと歌った。荒野の上に広がる幻想のヴェールは細切れに日常で目にする事ができる。日常生活に点在する小さな愉しみ、それらは煙のようで、儚く、愉快で、剥がしたら裏には何も残らないし、中心に何があるのか目を凝らすと何もない。東京都の中心にぽっかりと皇居で穴が空いているように、菊と刀の神髄がそこにあるように。でもその小さな煙、すぐに消えてなくなる靄に本質がある。マス向け広告で耳だこができるくらい聞いてきた押しつけがましさ溢れる野太い声の”don’t miss it”を、このような意味で歌ったJames Blakeは趣味がいいなと思う。
 
 

 
3ポイント。
3ポイント付いたことは喜ばしいことなのだ。
そんなに大げさなことじゃないけど、喜ぶ以外にどうしろっていうんだ。
ブツブツ言いながら今日も足元の荒野を見つめながら過ごしている。