日に日に隙間時間が無くなってくる。無茶な働き方が改善され、ブラックな労働環境が避けられるようになった昨今、オーバーワーク前提のようなイベントである子育ても避けられてしまうのでは、と感じるくらいには子育てに時間をすり潰されている。


先々月、ビスポークとMTMで同じ素材を使ったジャケットをかわるがわる着ていた時。仲良くもない社内の人にビスポークのジャケットの方を選択的に褒められることがあり、すわ繊研の刺客か、と警戒していた。ところが他にも服飾関係でないのに同様の意見を持つ人がちらほらいた。外見的にはディティールですら明確な区別がつかない。なのになぜ?と思った。もちろん自分は面倒くさいこだわりがあるし、服オタなのでボタンホールや肩のライン、襟の感じでわかるのだが、一般の人にわかるものだろうか?と感じた。舐めていた。「なんか雰囲気が違う」と、気取られてしまうのである。

高級な服を買う目的は自己満でしかない、という人がいるが、そうだろうか。わかる人にはわかる上に、わかる人が自分のまったく想定していないクラスタに存在することは、結構ある。実際、会食の場で、普段ツープラのスーツを着ている人から突然服の話で話しかけられ、なんでそんな話になったんですかと後日聞いたところ、「なんとなくいい感じの服を着てるから多分そういう事に長けてるんだろうと直感した」、との事で、そういう人もいるんだなと思った。


ある特定のクオリティのレンジを超え、「これ以上は大差ないな」と思ってそのレンジの中でコスパを基準に選ぶことは賢いのかもしれない。しかし、その選択がなにかの機会の有無を左右しているかもしれない。そして、その機会の自分にとっての価値は未知数だ。

素人目には区別がつかないもの。それを、数々の経験を自分の中で整理し、言語化したためにクオリティを峻別できるからこそ、区別し選択ができる。それ自体が自分にとっての特有スキルなら、それを選ばない、と言うことは果たして賢い選択なのだろうか。あるラッパーはChoose wiselyと言ったが、あるエンジニアはStay foolishと言った。そんなこじつけをしながら今日も流れるようにPayするのである。
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