この布地こそ、現在ジアードには絶対に存在している可能性のない、あの伝説の生地なのだ。噂を耳にしたことのあるものでさえ、すべての人々がこの服地の名を知っているとは限らない。しかし、ぺデルはそれが”プロッシム”と呼ばれるのを聞いたことがあった。
バリントン・J・ベイリー “カエアンの聖衣”
ジョン・ボーナムというドラマーがいた。26インチのドデカいバスドラをミュートせずにボォンと蹴り鳴らす。通称”ボンゾ”。あらゆるドラマーから尊敬される、ロックドラムの祖。彼のドラミングが輝く有名な曲、それがLed Zeppelinの”MOBY DICK”。意味は”白鯨”。アメリカ人ハーマン・メルヴィルによる、教科書にも載る古典だ。
当時、旧約聖書などかじりもせず、「伝説のドラマーの伝説の曲と同じ名の傑作の小説らしい」と訳もわからず読んだ白鯨。ひとつだけ覚えているのはクラムチャウダーだ。チャウダーの名店で供されるチャウダー、その肉感たっぷりのはまぐりの描写。たまらなく涎が出た。そのくだり以外は一切覚えていない。東京に珍しく雪が降った日、音が雪に包まれて静けさに覆われた冬、家の窓からしんしんと降る雪を眺めつつ、香り豊かなバターたっぷりのチャウダーに包まれたハマグリの味が、想像の向こう側から凍えた身体に染みわたってくる気がした。
美味しいチャウダーを食べた記憶はない。けど文章が想起する暖かさが心を癒す事があるのは知っている。30歳そこそこであのチャウダーを描写したハーマン・メルヴィルは、チャウダーが好きだったのかどうか知らない。しかし思い浮かべるだけで腹が減り、その豊かさを含みたくなるような、そんな情景は中々書き起こせる物ではない。
そういう書き表せない感覚を人に伝えたい時、どうしたらよいのか。
モノはこれ。ビキューナ。俗にいう、「神の繊維」。インカ王の時代から神からの贈り物とされていたそれに、触ったことがある人はそんなにいないと思う。なにせ市場に出回っているものでもフェイクが多い。ワシントン条約の保護対象であるため、売買時は証明書を添付する事が義務付けられているが、二次流通品には証明書がないものも多い。
ビキューナは南米高地のラクダの一種。絶滅が危惧された際は3000頭くらいだったらしいが、今は20万頭を越しているらしい。相変わらずチャクという儀式での刈り取りっぽいが。でも2年に1回、1頭から取れる量は250gとペルー政府から制限されているために、カシミヤ25,000トンに対しビキューナ12トン程度という規模の違いとなっている。ロロピアーナ、またゼニア(と子会社のアニオナ)が94年にペルー政府と連携し保護区やコンソーシアムを構築している。ジョンストンズは前から売ってるし、kitonが昔150万位でジャケットを昔作っていた記憶はあるが、今はどれくらいするのだろう。先日ダンヒルがビキューナのコートを395万でリリースしていた。
肌触りはひと触りでカシミヤと違う事がわかるレベル。触れると、濡れたカシミヤに触ってしまったか?と一瞬思うが、手を放すと乾いている。錯覚。この時に「カシミヤとは違うなにか凄いものである」と気付く。濡れた感覚を詳細に書くと、「何かぬくいものが手に触れているが、それは自分の体温が留まっている空気の層だった」という感じだろうか。
このストールを畳む。これが難しい。二つ折りにして左右のひとさし指で一辺の端と端を持ち、ファサっと反対側の端を揃えてテーブルの上に下ろす。が、恐ろしく軽いので空気を孕み、たゆたう。うまく下りてこない。なぜこれほど軽く、空気を抱えているかと言うと、糸の細さが原因だ。ビキューナは12ミクロン台の細さ。13.5ミクロンのベビーカシミヤ、13ミクロンのギフトオブキングスを凌ぐ12.5ミクロン。最も細い天然繊維とも言われる。
さらにこのストールは超甘撚り。あまり強い撚りはかけないらしい。断言できるが、「天女の羽衣」の感覚はこれだと思う。天女にSSがあったらそれはリネンだと思うが、AWはこれだ。
首に試しに巻いてみる。これがまた不思議な感覚である。暖かくて軽いどころではなく、温暖な空気に包まれる感じ。愛用しているシルクカシミヤのストールと異なり、即座に温まる。ビキューナストールの質量が少なく、空気を孕む量が多いため、保温力が高いのでは。ちなみに以前持っていたビキューナ混のマフラーもそんな印象はあった。が、重さが雲泥の差。
このストールはいわゆるド直球の「ビキューナカラー」。カシミヤといえば発色の良さだが、ビキューナもその例にたがわない。昔は染色でその良さが失われるとして無染色ばかりだったが、最近はグレーやパステルカラーなどがある。ロロピアーナいわく「35万頭に増えたからお腹の僅かな白い毛を集められやすくなったから染められるんだぜ」ということだ。
だからといって、頭数も増えてるしガンガン使っていこうぜ、なんて事はなく、私は怯えてこのストールを使って外出したことはない。カシミヤとエスコリアルのウーステッドスーツとかを結局着ないのと同じで、気を使うものはやっぱり性に合わないのだろうと思う。
結局は伝わらないと思うんだ。そう、だから答え合わせとして実際にこの肌ざわりを確かめたい、という変人がいたら売る。当時の定価でなら。リセールバリューは知らぬ。ので、譲りました。
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