“ぼくが知っているたったひとつの豊かさは、カンボジア人プリシラの美しい歯だった。”「プリシラ」ラッタウット・ラープチャルーンサップ

今回はシャツの話6割、バリ島の話4割。

一昔前、Band of outsiders(バンド・オブ・アウトサイダーズ)というブランドが流行った。ゴダールの作品に由来を持つそのブランドを立ち上げたのは、スコットという映画業界のキャリアがある人間だった。

当時、アメリカのオックスフォード・ボタンダウンシャツと言えば王道のブルックスブラザーズをはじめ、たっぷりとした身幅と長い着丈がほとんどだった。その中でバンドのシャツのみが短い着丈、細い身幅・アームホールという極端さで突出していた。

ところが私はバンドのオックスフォード・シャツを着こむには至らなかった。背中のセンターボックスプリーツというアイコン、ダーツ、流行りの絶頂であったこと、価格が3万もすることなど、理由は様々。

そんなわけで、1万数千円で大御所のブランド名も借りてやろうという企みで作ったのがこれだ。

ブルックス・ブラザーズ青山店へ外国輸入もののブルックスのシャツを着ていき、ピッチリ七三分けのジェントルマン店員に「イケイケなん作りたいんや」とエクストラスリムフィットでオーダー。

これ、当初はもう少し着丈があった。なんならオンでも着ていた記憶があるので、袖と同じ以上はあったハズ。それが洗濯でギュンギュン縮む。しかも生産国がわからなくなるくらい着込んで洗ってるのに、ヘタらない耐久性。

とにかく着丈がどんどん縮んでいくので、全然気分じゃない形になってしまい、どうしよう、捨てようかなと思っている。

細部なんてどうでもいいシャツとして扱うものだから襟のロールくらいしか興味が無かったんだけど、オックスフォードにしては縫製線が細めだったりと、やっぱり出来るだけ綺麗にしようとしている点は感じられる。ボタンはどうでも良かったんだな、っていうのも伝わってくる。インダストリアルだ。

捨てようかなと思いつつも捨てられないのは、夏にこのシャツを見ると、これを着ていったバリ島の事を思い出すから。

バリ島には海側と山側があり、ざっくりと言えば海側は遊ぶエリア、山側は観光地、という分かれ方をしている。当時は男たちだけで山側に行ったので現地のガイドからは「キモチワルイネー!!」と日本語で言われた。男衆で来たのなら、海側でドゥンチドゥンチと鳴る中で女の子と遊んで潤うべき、という意味だったのだろう。

寺院と田園が広がっている山側。ケチャやガムランなどの響きが好きな自分にとっては過ごしやすかった。なにより、静かだった。町の生活音はあるのだが、木の洞でうごめく蜜を見つめているような僅かな生活音は、むしろ静けさを支えているような印象だったし、山風がシャツの首元から裾まで爽やかな速度で抜けていくので、空気は滞留せず(衛生的にどうかはあやしいが)清潔に思えた。 もちろんビールが安いのでビンタンを浴びるように飲み安いメシを食う。曖昧になったままアラック(ココナッツ酒)を飲んで自我を失う。コテージのがさりとしたシーツのベッドに倒れ込む。いつのまにか夜になっているので眠る。という時でも、というかそういう時でこそ、田畑の蛙の鳴き声と虫の鈴の音を、木擦れの音がひっそりと包み込み、それがじっくりと、その上に空洞をつくる静寂を支えていた。

日中は詐欺まがいのおっちゃんに絡まれたり、サル園で子ザルに強めに噛まれて不安になったり、現地の人々を無下に扱う中年アメリカ人を見て暗くなったりする。けど、夜闇と静寂が体の芯の黒い塊を少しずつ外に運び出していくような気がして、あの瞑想的な静寂は東南アジアの夜の中で最も幸福な時間だったと今でも思い出される。

帰国する頃にはブルックス・ブラザーズの白いシャツにこの黒い何かが染み出して染まったりしないか、とか考えていた。パーソナルなシャツだ。

あの静寂に近いな、と思ったのはこれ。

ラッタウット・ラープチャルーンサップの短編集『観光』。全編素晴らしく美しい描写で傑作なんだけど、最後の「闘鶏師」の描写が個人的に好きだった。のでそこから長い引用をして、パーソナルオーダーシャツの紹介なんだかバリ島のパーソナル雑記なんだかわからないこの記事を終わりとする。

主人公のラッダが「何もなくなった」鶏小屋に入っていくシーンだ。

“その夜、夕食後に私は鶏小屋へ行った。ーー暗闇の中に座り、あたりの音に耳を澄ました。玄関からママのミシンの音が聞こえ、庭でパパが水やりをしている音が聞こえた。吹き出した水が土に当たって不規則なリズムを刻んでいた。上で雀が囀る声。木々で蝉の鳴く声。野良犬たちが蝉のオーケストラに合わせて代わる代わる吠えていた。私は長い間そこにいた。ママとパパが家に入って行った。ママが台所の明かりをつけたのでその黄色い光が鶏小屋の窓に映った。小屋の地面の上を移動するママの影を見ていた。間も無く明かりが消え、再び私は闇の中にいた。パパとママの呟く声がして、ふたりの寝室のドアが閉まる音がした。それから何の音もしなくなった。家の中の音も、動物たちの立てる音も。しばらくすると動物たちも眠りについたようだ。まるであらゆるものが私の両親とともに眠りにつくことにしたかのように。私は息を潜めた。わたしの息遣いがこの世に残った唯一の音で、わたしの周りには異様なまでの静寂しかないように思えた。その静寂のおかげで体が軽くなり、天井まで浮かんでいきそうだった。両腕を広げて羽ばたけば雀と一緒に飛んでいけそうだった。闇の中でどれくらい息を潜めていたのかわからないが、そのときわたしはこう思った。この世はなんて騒々しいのだろう、この世は騒音とざわめきに満ちている、こんなふうに何の音もしない、静まり返った時間はなんて素晴らしく、なんて尊いのだろう。”