吉野家で「豚丼の豚汁サラダセット」を頼んでから牛丼を食べて帰るまでの話。
コンクリートの冷たさが幅を利かせる中央区の大通りの四つ角で、吉野家を見つけた。店内に入る。「いらっしゃいませー」という暖かいけれど鋭さのある声が聞こえてくる。誰も私を見ていない。店員はみな自分の手元を見ている。箸が器の底を突く音と、ナイロンコートの衣擦れの音と、咳払い、啜る音がUの字型のカウンターの周りに密集している。私はコートを着てマフラーを巻いたまま席に着いた。
速やかに店員により茶がサーブされる。彼は目線を合わせない。20代前半くらいのようだ。黒縁のメガネをかけている。縦に毛が盛り上がり、横は刈っている、競馬場の芝生をサンプル用に四角く切り抜いたような髪型だ。目も鼻も豆や雑穀のような存在感で、突風が吹けば眼鏡を残してパーツが飛んでいくような顔だった。芝生と眼鏡とスーパーフード。
メニューを開いて5秒で私は「豚丼の豚汁サラダセット」を頼んだ。今まで私を見なかった芝生は、大変手慣れた素早い手つきで、メニューを見、私を見、もう一度メニューを自分に向けて見、伏せた(この間3秒ほど)後に私に向かって「豚汁の豚汁セットAで良いですか?」と聞いた。豚汁二つは要らないし、Aとはなにを指すのだろう。彼の手慣れた手つきとこのやり取りのテンポを乱すことは世の中にとってなにかとても良くない事になると考えた私は、「はい」とだけ答えた。芝生店員はすぐにキッチンエリアに向かってタガログ語のような何かを叫んだ。豚汁の豚汁セットA、それはメニューのどこにもない。しかし、メニューの中央上、すなわち私の注文商品が載っている所を見つめていた芝生店員は、直後に私と目を合わせたのだ。後に発した言葉は意味不明(意味不明というか、意味はもともと永遠に不明なのだからこれ自体意味不明ではあるのだがそんなことはどうでもよいくらい口馴染みが良い言葉である)ではあったが、恐らく伝わっているのではないか。そう考えた。そう考える人は少なくないはずだ。言葉はなにも意味がなく7割が疎かにされておりコミュニケーションというものは…と言いたいわけではない。こういう事は日常に起こる。誰もその時の「伝えるために使われたのに役目を果たさなかった言葉」を気にもとめず、水に流し、意思疎通したと記憶する。実際、外に出たのは言葉なのに、外に出ていない「意思疎通した雰囲気」だけが残される。事実は疎かにされて雰囲気が優先されるのはここではよくあることだ。
そんなことを憂いていたら鼻息荒く芝生店員が「おまっしましたー」と言い、丼と小鉢が乗ったトレイをゴト、と置いた。
レシートには牛丼大盛、卵とあり、届いたものは「豚丼の豚汁サラダセット」でも「豚汁の豚汁セットA」でもなく、牛丼大盛の卵セットだ。
思わず思った。違う、そうじゃない。
でも、こちらになにか瑕疵があったのではないか?私が言葉で「豚丼の豚汁サラダセット」を伝えたつもりでいて、身なりから「この人は牛丼大盛の卵を食べたそうな顔をしている」と判断される振る舞いをしていたのかもしれない。事情もわからずにいつのまにかドラクエの主人公の馬車に乗せられ三食賄い寝床付で強制労働を強いられるモンスターだっているだろう。店員はこう思ったかもしれない。「豚汁とサラダだなんて、そんな健康的なものをあんなイルな目つきのおっさんが注文するわけがない。無論、牛丼大盛と卵だ」と判断したのか、あるいは「彼は痩せぎすだ。もっと肥えさせた方が良いと世の人々は思うはずだ。それこそが愛だ。これは俺のジャスティスなんだ。」と判断したのか。どんな葛藤があったのだろうと逡巡する。
仕方なく私はそれを食べる。最初から私の求めるものは牛丼大盛卵セットだったのだろう。火のないところに煙は立たぬ。結果があるということは原因がある。真実はいつも一つかもしれないが、原因は常に複数ある。私の発音や顔や身なりに加え昼休みすら取れず狭いカウンターの真ん中でくるくる回り続けねばならぬ吉野家での彼の過酷な労働環境や将来を不安に思って隔日で我が子の就職活動の進捗を確認する彼の親によって逆撫でされる彼のストレスみたいなものが複雑に絡まって出来た、血と汗と涙と苦悩と鬱屈と怒りが複雑に絡み合いブラックボックスの中でのケミストリーを経た長大篇、それが牛丼大盛卵セットなのだ。芝生がキッチンの奥で他の店員となぜか残った豚丼を前にして何事かを話しながらこちらを何度か見る。それに気付きながらも私は決して目線を合わせず、自らが望んだ牛丼、心待ちにしていた栄養価を頬張り、牛の味を噛み締めているかのようにふるまう。
※ニャーン(写真は全く関係がない)
隣の客が「ごちそうさま」と席を立ち、芝生が七味唐辛子を交換するついでに会計のポーズを取る。590円になります。隣の客は硬貨数枚と色鮮やかな紙切れを渡した。「こちらもう有効期限が切れておりまふす。」店員が残念そうに言った。語尾に残念さを大きく含ませたせいか、まふす、と聞こえた。すると客は「まだ使えますよ」と言った。ですが…と返す芝生。すわ厄介な客か、どうする芝生と思って見ていたら、「1月31日までって書いてあるじゃないですか」と客が言う。私からも「2017年1月31日迄」という表示が見える。芝生は「アッ…ハッ…アッアッ…」と言いながらレジを打ちはじめた。客はじっとりとした顔をして芝生をにらむ。彼のライフはもうゼロなのだろう。察するにお詫びの言葉を考える気力すらないほどにキャパシティはフルである。芝生がキーを押下すると、ドロワーが開く音が大きく響いた。芝生は20円のお返しです、とつり銭を客に手渡した。客は店を出て行った。静かにテンパっている時ほど二次的なミスは起こるものだが、彼は無事会計を終え、ありがとうございました、という事ができた。食器を下げることも難なくやってのけた。
私も会計を済ませなければならない。オーダーの事について言うべきかどうか考える。こういう時はっきり言えるのが大人、ここまで来たら何も言わず会計するのが大人、とか、人はさまざまに言うかもしれない。〇〇は大人、大人は〇〇する、というのは子供が言う「みんなやってるよ」と変わらない。それを使った時点で大人ではない、という自家撞着的な性質を持っており、ただ共同体の維持には有用だ、というだけである。
芝生が何を望んでいるのかわからない。自らのサービスが間違っていたと知っていて、なぜあの客は食べたのか、最後に怒鳴るか返金を要求されるのでは、と恐れているのだろうか。それとも全く気付かずに、まっとうなサービスをしたと思っており、先ほどの奥の店員とのやり取りとこちらへの目くばせは全く別の事なのだろうか。箸を静かに置いて、私は席を立ち、ごちそうさまですと言って財布を取りだした。ほかの客の注文を聞いていた芝生ははっきりとした声で「お待ちください」と言った。最後の戦いが始まろうとしている。私は自分が何を言うつもりなのかわからない。オーダーの間違いに言及するとしても、きちんと牛丼大盛卵セットの対価を支払った上で言うだろう。実は私の注文は豚丼であったのだがあなたのサービスは間違っていた、けれどどちらでも良かったのでなんとも思っていない、今後のサービス向上を祈る、というようなことを言うのだろうか。もちろん祈っていない。かと言って、さっきのディスコミュニケーションをこのまま何もなかったことにしていくのは世の中の何かを永遠に無視する生き方を選択してしまうような気がしてもったいないというかなんというか・・・こんなことを言いだしたら不審者だ。
芝生は入ってきたときと同じように目線を合わせない。トレイの上のレシートを手に取り、私は財布から言われた額ぴったりの硬貨を出し、机の上に置いた。ドロワーの音が響く。芝生は何も言わなかった。私には、彼が怒っているのか、恐れているのか、なんとも思っていないのか、顔面に静かに配置された雑穀の動きからは感じ取れなかった。私はこの人とまともな言葉での会話はおろか、雰囲気での意思疎通もできなかった。
私は店を出た。店の奥から、ありがとうございました、とそれぞれの作業中の手元に向かって投げられた鋭い声が聞こえた。
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