安らぎと屈辱と恐怖を感じながら彼は、おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれを夢みているのだと悟った。
J.l.ボルヘス”円環の廃墟”
「縫って縫って縫いまくりたいんです」
彼は言った。齢30そこそこで、やや長身痩躯。なんでこんな事を?という質問への回答がそれだ。彼の経歴について詳しくは書かない。テーラードを早くから志向しており、あるテーラーで働いていたことは確かである。
店を出しているわけではなく、表だって屋号を出しているわけでもない。ただ、ブログはある。Instagramもある。見た事のないディティール、知らない雰囲気。というわけで私は連絡を取り、大宮のWhite Albumに寄ったついでに、そこからしばらく行った所を訪れた。彼の本拠地…いや、家…?である。
当初はデザインを志していたらしい。家には車のデザイン本がいくつもある。また、親族がメンテナンスしていたであろう家は、いたるところに趣味の調度品がある。不思議な雰囲気をたたえた庭も相まって、恐らく視覚的なデザインの分野に精通した家系の血を引いているのではないだろうか。
最近、日本のテーラードジャケットはイタリアが主流である。個人的な実感では5割の既製品はイタリア系、残りをブリティッシュとアメトラが分け合っている構造。イギリスはドライでカシっとして真面目。アメトラはボックスシルエットと紺ブレ…しか知らん。
色気、という意味でイタリアは強い。いわゆるエレガンテというのは服と人の様々な変数の凹凸で決まるので、どこ、とは言えないのだが、全体的なバランスの中で色気を持たせる仕上げは見事だ。ISAIAのGREGORYやBOGLIOLIのHAMPTONなど、パッドを使ったりコンケーブドに仕上げたりとつくりをブリティッシュに寄せたものもあるが、やはりブリティッシュとは異なる雰囲気、色気がある。
ただ、色気が出るものを選択的に着るなんて、どう転んでもしゃらくさい行為そのもの。イタリア人ならばそれでいい。彼らは本気でクソ面倒なくらい格好つける事を誇りとしているからだ。だけど我々日本人は?そんな精神性は持ち合わせていない。
TABARA Coatmakerの服には、色気がない。つまりはイタリアの服っぽさが無い。ところが、英国的な服っぽさも、アメリカンスタイルも、フレンチトラッドも、何も感じ得ない。日本の古式ゆかしいテーラーの感じともまた違う。何か嗅いだことのない匂いがするのだ。それは辺境の土産物のような、アルチザンのようなものでもない。敢えて言うならば、インダストリアル。それは彼がディティールに込めたものの話の中で明らかにされた。フェラーリ、ポルシェ、シトロエンなど、種々の車の曲線やアイコニックな仕様から着想を得たデザインが、実は各所に埋まっている。その総和がインダストリアルな印象を生んでいるのだと思う。
どんな服を作りたいと思ってるんですか、特徴は?と聞いた所、「活動的な服です」。気張った一張羅ではなく、雨の日に襟を立ててよける外套のような、軽く登山に行く時の道具のような、旅行のお供のような。つまりその真意は生活に根差した服。靴やデニム、コートを相棒として扱うような、そういった関わり方がされるような服を目指しているようだ。
今回のジャケットに対するこちらからの注文は生地位で、ほとんどお任せで作った。
実直な、普通のネイビージャケット。生地はカノニコのカバート。原毛が太い粗い手触りの綾織りで、目付440gとコートにも使える生地。生地が少し重いこと以外、表立って特徴は無い。しかし、仕事が詰まっている。毛芯もパッドも「市販に気に入るものがないから」と自作。型紙に手引、手裁断。自作したアイロン台を使い、当然八刺しから何から手縫い。世代も相まってcamioと同様の若手職人の狂気みたいなものを感じる。
生地も持たずに価格設定もイタリアの職人民家なみの設定(さいきん生地を買うルートを手に入れたそうです)。果たして彼はどこまで大きくなるのだろうか。
フィッティングはイタリアの服のように攻めておらず、イギリスの服のように重くもない。フレンチの気取らなさのような人間味も見えない。なんというか…空気をはらむ感じがとても、とても自然である。デザインも控えめで、強調されたところがない。
新しい何かを説明する時、既存の何かを使って例える事の無意味さを思い知る。幻で幻を説明する循環参照。TABARA Coatmakerも、TABARA Coatmakerでしかないのだ。
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