南シャツで初めて麻のジャケットを作った時、仕上がったそれを着て鏡の前に立り、フィッティングを確認する中、私はボタンを留めた。その時、南さんは驚いた顔をしてこう言った。「えっ、ボタン留めます?」

南さんの呪いによりボタンを留められなくなったジャケット

確かに、ふだんボタンを留める事はあまり無いが、TPOによっては留めることもあるのでは、と思った。しかしよく考えると、留める時とはどういう時なんだろうか。あらたまった式典?フォーマルな場?それはそもそも麻のジャケットではなくウールのスーツを着ていくはずだ。ならばボタンを留める機会は来ないのではないか。

かくして、第一ボタンを留めないシャツがあるように、ボタンを留めない想定のテーラードジャケットがあることを知った。それからである。他人のボタン事情が気になるようになったのは。

写真では留めているケースがほとんどで、フランコミヌッチ氏、パーマネントスタイルのサイモン氏をはじめ、マイルストーンの鈴木氏や赤峰氏も留めている。一方、アットヴァンヌッチの加賀氏はダブルでもない限り、ジャケットのボタンはあまり留めているイメージがない。インスタ上のイタリア系に傾倒したインフルエンサーの方々もそう。

アットリーニの構築的なスーツはむしろボタンを留めないと綺麗な線が出ず、ラペルロールが映えない
このザマである

ボタンを留めるとドレスアップにつながる。ので、自分のスタイル上でどこまで砕けるか?というバランスを取るために、留めるか外すか、が選ばれているようだ。

例えば、ネイビーのウーステッドのシングルスーツでブリーフケースを持って颯爽と歩く際はボタンを留めるべきかもしれないが、そこにスニーカーを履いてインナーにTシャツを着て踝を出したりしていたら、ボタンを留めるべきではない。そこからスーツをLa Favolaみたいなコットンのダブルスーツに、バッグをボンサックに変えて髭を生やしてサングラスでもしようものなら、むしろボタンを留めたほうがバランスが取れる気がする。わかるだろうか。本当にコーディネーションというものは言語化するには変数が多すぎる。ここに時間(トレンドや時節柄)・接する人間・状況という変数まで乗ってくるもんだから、”イケてる”とか、”気分”とか曖昧な言葉が跋扈する。すると、俺たちは雰囲気で服をやっている、と言うしかなくなるのだ。

最近やっと着方がわかってきた気がする

すぐに愚痴っぽくなるのは加齢だ。話を戻そう。バランスの取り方というのはいつの時代も難しく、経験が物を言う。偏見だがアローズの鴨志田氏などは、シングルのセットアップは留めているイメージがない。氏はとにかくバランスを保つことに長けているので、偶然ではないのだろう。ベテランの方々こそ、さりげない装いの中で計算結果が反映されている。

さて、ボタンは状況に応じて外すこともある。特に椅子に座るときに外すわけだが、これがわざとらしいとイマイチな所作となる。片手で外すのは慣れていないとできない。雑誌では「自然に外すのがスマート!」とダイソー便利グッズさながらに書かれている。自然にそれをこなしたらそれはそれで、気に食わない印象がある。いや、出ていないのかもしれないけど私の場合は自意識の闇が深すぎるので痛みを伴う。それゆえに私は普段ボタンは留めないか、あるいは留めるなら、座る際は基本留めたまま座り、隙をついて外すという自意識の監獄に囚われた生活を送っている。結局、何が自然なのかわからない。

昔のDALCUORE、ボタンを留めない方がわざとらしくなくて良い

かくしてボタンを外すタイミングがいまだにわからない。そういえば他人のボタンを外すタイミングもわからない。社会人生活が浅い頃、「ボタンを外してもらう時の間が気まずいのでそういう事になりそうな時はボタンの服を着ない」というおとなのおねえさんに出会ったが、それはそれで残念では、と思う。その気まずさは共有してこそのスパイスなのではないか。無粋なことがあるのか。わからない。

私はスーツを着るとき、威圧感が出るのが嫌でボタンを留める事があまりない。手持ちがほとんどシングルなのも理由の一つ。ダブルだと留めるケースも出てくるのだろう、とLa favolaを羽織りながら思う。作り手の人は留めることも留めないことも想定して作っていただいている、とは思うのだが、やはりどっちが得意、などはあるのだろう。ビスポークではその辺を会話すると長くなるが、山本耀司いわく「ボタンには留めると昇天する場所がある」、との事なので、ボタン位置とそれを留めることについては、こだわってもすぎることは無い、というものなのだろう。